[全訳]
銀版写真は初期の形式の写真である。銀版写真で撮影されたパリの街路には、非現実的な特徴がある。人がいないのだ。写真家は皆が居なくなるまで待ったのだろうか。皆が起きだす前の夜明け頃に写真を撮ったのだろうか。
このような初期のカメラは、写真を撮るのに数分もかかった。その間人々はカメラの前を行き交っただろうが、最終的な写真にはわずかな痕跡さえ残さなかったのだ。残ったのは市街の固く動かない部分のみである。これらの初期の写真家達は、永続的なもののみが映ることを、奇妙だとは感じなかっただろう。彼らにとっては、永続のみが現実だったのである。おそらく彼らは街路を撮影した現代の写真を奇妙に感じただろう。人々は歩みの途中で固定され、子供は縄跳びの途中で空中に浮かんでいるという奇跡をなし、2度と着地することはないのである。一方で、彼らが現代の写真を彼らの時代の銀版写真よりもリアルだと感じた可能性もある。なぜなら彼らの時代の画家達も街並みに、歩く人や遊ぶ子供を書き入れているからである。
しかし彼がどのように感じたとしても、画像における「現実」とは慣習の問題であるようだ。こんな話がある。『アヴィニョンの娘達』を見たある男が、ピカソに歩み寄り質問した。「なぜあなたは人を見たまま書かないのですか?」「ふむ」ピカソは答えた。「人はどのように見えるのかね?」男は財布から妻の写真を取り出して言った。「こんな風に見えます」ピカソは写真を見て、それを男に返してから言った。「この女性は小さいね。それに真っ平らだ」
我々は往々にして、画像を認知可能なシーンにするために、脳が多くの情報を追加していることに気付いていない。アメリカ人画家のマーク=タンゼイの『イノセント・アイ・テスト(騙されやすい目のテスト)』と名付けられた絵には、一匹の牛が描かれており、その牛は原寸大の何匹かの牛の絵(絵中絵)を見せられている。科学者達が側に立ち、その反応を観察しているが、何の反応も示さない。牛から見れば、絵も塀と変わりがなかった。
ニューヨークのメトロポリタン美術館に掛けられているその絵も、絵の中の絵も、フルカラーではない。代わりにどちらも古い写真のような色が付けられている。これは絵を見せられている『本物の』牛自体が絵であり、他の牛同様に平らで生命のないものであることを強調するために違いない。牛達は全て、同じサイズと同じスタイルで描かれているにもかかわらず、人は一頭を本物の牛と認識し、残りを牛の絵ととらえる。最初の牛の方は絵を見せられても何も感じないようだ。その牛はアートという概念がないので、絵を理解することができないのだ。
|