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東京大学過去問2014年(5)解答


[全訳]
 私はこの7月初旬の朝、セーヌ川沿いに軽いランニングに出かけた。それは愉快だった。外に人がほとんどいなかったから、快適に走ることができた。パリはそぞろ歩きの都市であり、ランナー向きではないのだ。
 女性達は白いロングドレスにヘルメットなしで、自転車のペダルを踏んで街路を行く。あるいはピンク色の短パンと、それに合わせたローラースケートで駆け抜けていく。男性達はオレンジ色のパンツと白いリネンのシャツを着ている。彼らは少しだけ言葉を交わして、交差点に消えていく。次に出会う時には、彼らは自分達の人生を愛でながら、サン=ジェルマン大通りをポルシェでゆっくり走っている。パリのこの小さな地区では、誰もが『努力なんてしたことないよ』という例の言い回しを証明するかのように、余裕たっぷりである。
 カップルがカフェに隣り合わせに座って、街路を見ている。『ヴォーグ』掲載のファッション写真か、マネキンのスタイリッシュな展示かのように、彼らは何列も集まっている。誰もが煙草を吸う。彼らは自分達を待ち受けているものを知っている。それは順不同の恐ろしい死や、狂乱のパーティである。
 私は帰宅した。シャワーを浴びて、服を着た。私は向かいの店でパンとミルクを買った。妻がコーヒーを淹れてくれた。私達は朝食をとった。それから強い疲労感に襲われて、正午まで寝た。目覚めた時、息子は着替えを済ませていた。妻はグレートギャッツビーのTシャツとサングラスとイヤリングとジーンズを身に付けていた。彼女の髪は後ろに結われ、大きく美しいアフロにブローされていた。私達は外へ出て、郊外へ向かう電車に乗りに行った。息子は荷物を抱えていた。このあと6週間、息子に会えなくなるのだった。
 電車に乗っている時、自分がどうかしていたことに気が付いた。ボストンにいた頃、私は参考書と古い語学のカセットテープを使ってフランス語を勉強し始め、その後フランス語学校の授業へと移った。それから私は家庭教師を雇った。私達は近所のカフェで会っていた。時折、息子がそこに立ち寄った。私は彼がその場に残りたがることに気付いていた。ある日、彼はフランス語を学びたいと言った。私は奇妙だと感じながらも同意した。5月、フランスに来る前、彼は1日8時間の2週間の講習を受けた。彼は授業のため6時に起床し、12時間後に帰宅した。彼は夕食を食べ、建設業の労働者のように眠った。しかし彼はその生活が気に入っていた。今、私と妻と息子は夏を過ごすためにパリにやってきた所で、彼を語学集中合宿(毎日フランス語コース)に送り出そうとしていた。
 これは異常なことだ。私は自分の子供時代に受けた家庭での訓練、つまりコンスタントで不断な努力というものを、暴力なしで示そうとしている。親から厳しい躾を受けた我々のような者の多くは、たとえベルトやブーツによる暴力から得たものであっても、その教訓を尊重する。子供達をあのような暴力に晒すことなしに、ああした教訓を伝えるにはどうしたらよいだろう?子供達を虐待に晒すことなしに、闘争をもたらす世界に負けないよう、彼らを鍛え上げるにはどうしたらよいだろう?私の出した唯一の答えは、彼らを奇妙で変わった場所、どこかの誰かがいつか『君は賢いね』と言った事など何の意味も持たないような場所、に連れて行くことだ。私の出した唯一の答えは、自分が大人になって経験した学習法を模倣し、子供に合わせて適用することだ。
 しかし私は美しい褐色の息子のことが心配だった。
 3週間前、私はまだアメリカにいて、父と一緒に座って、自分が息子の不品行をどのように罰さねばならないかを話していた。父親になる事に関して心の準備の出来ていなかった事がある、と私は父に話していた。それは自分が悪者になる事がどれほど辛いか、どれほど息子を自由にさせてやりたいか、自分が息子を罰する時はいつでもどれほど彼の痛みを共有しているか、という事である。私は自分が息子の年齢だった頃のこと、そして12歳になるのがどれほど嫌だったかを覚えているので、そう感じるのだ。私は父が同意して頷いているのを見て衝撃を受けた。私の父は厳しい人だった。彼がその厳格さを楽しんでいたと思っていたわけではないが、私達を躾けるために父が無理をしていたと考えた事はなかった。彼は自分のそうした部分を私達に見せた事は一度もなかった。彼の信条は「母を愛し、父を怖れよ」だった。だから仮面を被っていたのだ。あいにく、私は父も母も怖れていたのだが。
 私は昨日この話を息子にした。私はピアノのような、彼が興味のないことを無理にさせるつもりはないと伝えた。しかし一度興味があると宣言したのならば、とことんまでさせる以外の方法はあり得ないのだ。なんとパリジャンとは程遠いことか。しかし私は、人生における痛みは避け難いことであり、行動する痛みか他者の行動を受け入れる痛みのどちらかを選択することしかできないのだと、息子に伝えた。ただそれだけなのだ。
 私達はサインをし、中に入った。彼は試験を受けた。私達は彼の部屋を見て、彼のルームメイトに会った。私達は息子に愛していると伝えた。そして私達はその場を離れた。
 「僕がe-mailを送ったら、」と彼は言った。「必ず返信してね。パパとママが元気だって分かるようにね」
 私達が元気だと彼に分かるように!
 立ち去る時、妻は泣き始めた。電車に乗ると、私達はこうした全てのことが狂気の沙汰であると話し始めた。つまり私達は凡庸で馬鹿げてはいるけれど、今まさにここにいて正解なのだと話した。最初に住んでいるブロックを出る。次に地域を出る。次に高校を出る。次に都市と大学、最後に国を出る。いずれの段階でもまた1つの世界を捨てるのであり、いずれの段階でも、故郷への引き戻そうとする温かな引力、つまり大きな愛を感じる。そして故郷を捨てることなど馬鹿げたことだと感じる。自分自身に対して、そのようなことをするのは愚かなことだと感じる。そして誰がこんなことを子供に対してするのだろうかと不思議に思うのである。


[単語・熟語 level A]


[単語・熟語 level B]


[解答]
(1) オ
(2) ウ
(3) 『私は頑張ることすらしなかった』というフレーズの実例を、誰もが提供しているかのようだ。
(4) オ
(5) エ
(6)(6a)=オ
(6b)=イ
(6c)=ア
(7) ア
(8) 愛情を感じる故郷と呼べるような場所から引き離すこと。
(9) 2番目−ウ、6番目−キ


[解説]
*解答をE-mailで送って頂ければ採点して返信します。E-mail:info@exclusive-academia.com

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